過激な『家庭音楽鑑賞』


*1

昔々のその昔、『家庭音楽鑑賞』というNHK-FM番組がありました。

いつから始まっていつ終わったのか知りませんが、1970年代を通して放送していたのではないかと思います。朝の9 時からの番組だったので、さほど聴く機会はなかったのですが、『家庭音楽鑑賞』という、やわで保守的で道徳的な名前に反し、印象は強烈でした。

なんせ、上浪渡のナレーションで


「家庭音楽鑑賞の時間です。本日は先日行われたドナウエッシンゲン現代音楽祭から、ジョン・ケージの新作と新しい作曲家たちの作品を聴いていただこうと思います。」といった調子です。当時の社会的な受容状況からは、朝っぱらから『い、いいのか?!をい!』と言いたくなるほどでした。
上浪渡は後に『音楽芸術』誌上で「あの番組はつぶさなければいけないと思っている」とまで某氏に書かれた日曜夜10時から始まる番組、『現代の音楽』の顔でした。朝にも顔を出してたんですね。(^^;;
尤もこの番組、現代音楽ばかりやってたわけではなく、服部幸三のソフトで紳士的な声がバロック音楽を紹介したり、皆川達夫が朴訥なしゃがれ声で中世・ルネッサンス音楽を紹介したりもしてました。
この両人は、朝6時からと10時からやっていた『バロック音楽の楽しみ』を一週間おきに担当していました。『バロック音楽の楽しみ』は週日放送していたこともあり、大学時代に一番聴いた番組で、これが無かったら私が古楽のコンサートなど聴きに行くことは無かったと思います。
他にも、美術評論家で該博な知識の持ち主、高階秀爾が番組の構成と解説をしていたことがあります。記憶では、フランス古典派(バロック)の紹介だったように思います。太陽王ルイ14世の時代ですね。
現代音楽では、当時既に大家となっていた作曲家たちも『家庭音楽鑑賞』で紹介されており、カールハインツ・シュトックハウゼンの『ヒュムネン(諸国国歌)』はこの番組で初めて聴きました。確か『少年の歌』もやっていたと思います。

そうした古き良き時代、

私は時々FM放送をつけっぱなしで寝ることがありました。ゴールデンウィークのある日の朝、9時を少し回った頃、鮮烈な音響が鳴っているのに驚き、飛び起きてエアチェックを開始しました。オープンリールのデッキです。当時のカセットテープは音質が悪く全く人気がなかったのです。
曲が終わって興奮も覚めやらぬうちに、上浪渡の声が聞こえました。「ハインツ・ホリガーの『クライス』...『息』...でした」。「・・・ま、なんチッか、素〜晴らしい...感覚...ですね・・・」。
数人の金管奏者が、はずしたマウスピースと息で即興演奏をしていたようです。その出てくる音の緊張感と清冽さが、ビンビンと突き刺さってくるのです。快感でした。ブラボーの大拍手が起こったと思います。
大学に入ってから、ホリガーがオーボエの超絶技巧の開拓者として既に著名であることを知りました。現代音楽の作曲家としてもLPを何枚か出していました。
『家庭音楽鑑賞』で聴いてから数年後のことですが、行きつけのレコード店でホリガーの現代曲を探しました。でも、『クライス』らしき曲名は見当たりません。作曲年の近いものを選びましたが、出てきた音は全くの別物でした。それきりお蔵入りです。
残念ながらその後テープデッキは故障を繰り返し、最後は放っておいたので修理も不可能になっています。高価な2トラ38ではなく、安価な19cm/sという半端な規格と、パイオニアというメーカーの不人気から、インターネットで中古を探しても見つかりません。今のところ、『クライス』は幻の名曲になっています。
おそらく『家庭音楽鑑賞』では、ごく普通にロマン派や古典派もやっていたのだと思います。でも全く記憶に残っていません。ロマン派嫌いだった当時の私は、番組が始まってもすぐに切ってしまったのでしょう。でも、聴いた回数こそ少なかったけれど、その後の私の音楽の嗜好に、大きな刻印を残した番組でした。

思うに、もし当時、番組名に安心しきって

子供に聴かせているお母さんがいたら、大丈夫だったのでしょうか。前衛に目覚めて家を飛び出した子供もいたのではないでしょうか。親の知らないうちに家庭破壊音楽鑑賞になっていたかもしれません。
時代は過ぎ去り、誰でも何でも聴ける音楽環境が形成されつつあります。
しかし、当時の状況を思い浮かべると、『ほんとは怖かった『家庭音楽鑑賞』』と言いたくなるところでした。

  現代音楽 作曲家 2007年05月05日 Muse

*1:☆ミラーです。インポートできないようなので手動でやりました。Muse というクラシック系SNSのブログの同じ日に同じ文を載せてます。ハンドルは『とっち〜』です。(2007.06.23コピー)
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機械仕掛けのピアニストのために:コンロン・ナンカロウ

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#1

妙にゴロの良い、軽妙な響きの名前を持つこの作曲家のことを、僕は長いこと生粋のアメリカ人だと思い込んでいた。アメリカに時々発生する、他人や外界のことなど全く気にせず、世間と隔絶して自己の世界を構築し続ける、そうした隠棲芸術家の一人だと思っていた。
実際の彼はメキシコへの亡命者だ。スペイン内戦に参加し米国政府から帰国を拒否されたためだ。崑崙の山奥に住む仙人ではなく、極めて行動的な人物だったわけだ。このことを知って軽いショックを覚えた。

#2

ナンカロウは自動ピアノ(ピアノ・プレイヤ)のための曲を書き続けた作曲家だ。いや、書くのではなく、自動演奏の要である紙ロールに穴をあけ続けたと言うべきか。学生の僕は、マッド・コンポーザーの映画が作れそうな光景を想像したものだった。巨大な山脈を仰ぎ見る山小屋に独り籠って、日々ロール紙に数万個の孔をあけ続ける作曲家。
実際にはナンカロウは、人間が演奏する楽器のための曲も書いていた。またも軽いショックだ。歳月が思い込みを固化させたのだろう。

#3

去年のことだが、いつもは行かないCDショップの棚にコンロン・ナンカロウの名を見つけ、昔聴いた自動ピアノの狂ったような響きを憶い出した。ナクソスのディスクには『アメリカン・クラシックス』というシリーズ名が印刷されていた。僕はほとんど考えずに、他に選んだ数枚とともにその1枚を買った。
部屋で聴いてみると、自動ピアノが入っているのはただの1曲だった。それも人間の弾くバイオリンとの協奏だ。ツイてないと思った。

#4

最初の曲は1943年作の『小オーケストラのための作品第1番』。同じタイトルの2番が最後に入っている。だが、そちらは40年以上経ってからの作品だ。
表現主義的な不安な響きに始まる第1番では、様々な要素が不連続に次々と生成していく。
20世紀初頭のヨーロッパにありそうな音楽に、古いジャズバンドのリズムや響きが時々侵入してくる。ベースのピチカートや金管の使い方にもそれを感じる。50年代の映画やTVドラマに使ってもおかしくない部分もあるほど、しばしばポピュラーミュージックの香りが立ち上る。しかしそれらは常に裏切られる。波のように変化するテンポを軸に、何もかもが急激な変化を続ける。しかし一定の彩りはある。
様々な楽器が異なるテンポとリズムで勝手に自分のパートを弾いていく。かと思うと突然協調し始め、テンポも大きく変わる。最後は唐突で華々しい金管の合奏で、やはり唐突に終わる。
アイヴズを始めて聴いた時のように、20世紀前半のアメリカ的な印象が強い曲だ。
『バイオリンと自動ピアノのためのトッカータ』では、いかにもナンカロウらしい自動ピアノの音が、高速に切れ目なく続く。ピアノは音色と響きが極めて特殊で、むしろチェンバロに似ている。家の外から超人ピアニストの練習振りを眺めている印象さえある。そこに負けじとスタジオのバイオリンが絡んでいく。大変なリズム感覚を持った曲だ。ここではまだ一般的な意味でのリズムが支配している。1'38"とごく短い曲だ。ナンカロウには短い曲が多い。
1935年の作品だが、非常に早い時期にナンカロウが自己の手法を確立していたことが分かる。当時のバイオリニストにはこの曲は苦行だったろうが、マイア・ウーは嬉々として弾いている。
同じ1935年の『プレリュードとブルース』は人間のピアニストが弾いている。残念だが原型ではなく、シェリル・セルツァーとジョエル・ザックスによる編曲版だ。弾いているのも彼らである。
時々ラグタイムの奏法が聴こえるなど、アメリカの伝統的な通俗音楽の響きが侵入している。意図なのか趣味なのかよく分からないが、アメリカ的な異物を侵入させるのは耳を裏切る効果はある。
スタディ15番』イヴァール・ミカショフ(?)による4手のための変換。1950年代の作。
これも同じように聴けるピアノ曲だが、はるかに先鋭化している。35年には濃厚に残っていた、のんびりした、たゆたうような(しかし変化の激しい)感覚は既に消えている。
ナンカロウの曲を人間用のピアノで聴くと、リゲティのピアノのためのエチュードと似た響きが断続的に聴こえてくる。異なるリズムやテンポの並列が、似たような音響を生むのだろう。
『?タンゴ?』(最初の『?』はひっくり返っている)1984年。これは2手。
こうして、普通のピアノの音=人間の演奏で聴くと、ナンカロウは意外なほど斬新で清冽な響きがする。決して音数が多いだけではない。しかも複雑さに反して聴きやすい。最小のパターンの重なりが中程度のパターンを形成し、聴覚的な認識がしやすいのだろう。自動ピアノ曲にはビート感さえ覚える。
ナンカロウのピアノ曲は常に聴きやすい現代音楽だ。分析はできなくとも耳が受け入れやすい音楽だと言える。
『ピアノのためのソナチネ』1941。これもミカショフによる4手のための変換。
第1、3曲(楽章?)のリズムの重なりがナンカロウらしい。2楽章は、構成のアイデアが冒頭の曲のピアノ版のような印象。
『トリオ・ムーヴメント』1941。クラリネットバスーン、ピアノ。
これも似ている。多様さは増しているが、その多くをピアノパートに依存している。それにしても律儀に終結する曲が多い。多くの曲は、唐突だが明快に終わる。
弦楽四重奏曲1番』は1945年の作。静と動が頻繁に繰り返されるのは弦を使う場合の特徴かもしれない。ピアノ曲ほどに魅力はなく、とりたてて興味は惹かなかった。
最後は『小オーケストラのための作品第2番』1986年。
1番とは異なり情緒的な雰囲気はない。打楽器的に使われる金管、ピアノ、ベースが冒頭から目立つ曲だ。やがて木管も同音反復する。しかし突然テンポがゆっくりになり、うねるような旋律が浸食してきたりもする。様々な曲を貼り合わせたような印象だ。
だが、1番から40数年の時を隔て、書法が変わったはずなのに音色や響きの印象は大きくは変わらない。演奏家たちが同じせいばかりではなく、ナンカロウの音使いの本質を示しているように思える。

#5

このディスクには純粋なものは入ってないが、ナンカロウの自動ピアノの曲には番号だけがついていて意味のあるタイトルはない。
番号が大きくなるにつれ、曲は複雑化し、早くなる。1秒間に発生する音数も爆発的に増えていく。おそらく五線譜に起こすと10段は軽く越えるだろう。
記憶の中のコンロン・ナンカロウの自動ピアノ曲では、縦横無尽に交錯するパッセージ群のあまりの早さと音数の多さに、耳で1音1音を分離するのは全く不可能になる。いや、部分的なマスや線としての分離さえ諦めざるをえないほどだ。ましてや人間には弾けるわけがない。演奏にはタコのような8手と、その先に生えた精密な80本の指がいるだろう。
多くの手が、指が、異なる速度で異常に速い音列を勝手に繰り出し、幾条もの鞭のように唸りながら飛んでいく。それでも基本的なリズムはあるのだ。等間隔な音の列さえ存在する。むしろポップスにおけるビート感があると言った方が適切かもしれない。

#6

僕は、細かな穴のびっしりとあいた、弱り切ったテクスチャのような紙を想像し、1回『演奏』するとボロボロになるんじゃないか、いや『作曲』中に紙が破れるのではないかと、いらぬ心配をしたものだった。
FM放送から流れるナンカロウの曲が、複雑さと速さの頂点に達する頃、僕は思いついて、ステレオに加えて3台のラジオを自分の回りに配し、全く同じ放送を、バランスに注意しながらボリュームを上げて聴いた。
頭がくらくらするような音響体験だった。脳の中をびっしりと、無数の大小様々な流星群が飛び回っている。トリップ状態だ。ただの自動ピアノが発する音の群れは既に音楽を越えていた。
70年代の終わり頃のことだったが、あの時の音響体験は今でも鮮明に覚えている。

#7

今思えば、コンロン・ナンカロウはデジタルとアナログの境界領域にいるような作曲法をとっていた。ロール紙は初期のコンピュータの記録媒体たる紙テープそのものである。眼に見えるサイズの孔は、リズムの視覚化に極めて適している。
十二平均率の権化たるピアノは離散的な音を発する、デジタル向けの機構を持っている。アタックが強く、すぐに減衰する音は、パーカッションにも向いている。
ナンカロウはこれらと三位一体となってユニークな音世界を開拓していったのだろう。
コンロン・ナンカロウは、リズムの作家だ。そのリズムは僕の聴くところ、アメリカのポピュラーミュージックの源流である、アフロアメリカンなビート感覚を残している。ピアノ以外の楽器の使い方もその一つの現れのように思った。
彼の自動ピアノ音楽の聴き易さは、そこにも起因しているのではないだろうか。

【メモ】
ピアノプレイヤー(自動演奏ピアノ=自動ピアノ)
NAXOS Amrican Classics - A Continuum Portrait Vol 5 - Nancarrow CD, Continuum / Nancarrow / Sachs / Seltzer
A Conlon Nancarrow Web Page:ここが面白そうだった。読んでないけれど。(^^;;
僕が聴いていた頃とカタカナ表記が異なる音楽家は多い。彼もその一人で、当時は『ナンカロー』と表記していた。Google すると『ナンカロウ』の方が2桁多く、約1100件だった。一方、"Conlon Nancarrow" では11万件に上る。
あれから四半世紀以上が経っても、日本では名前が知られていないようだ。
 現代音楽 アメリカの作曲家  2007年05月04日 Muse

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黎明期の電子音楽 〜未来への追憶〜

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タワーレコードのポイントが貯まってきて、

期限も近づいてきたのでディスクと交換することにしました。連休に入ったのでまとめて聴くには良い機会です。
歯医者の帰りだったのであまり考えたくなく、現代音楽コーナーに絞り、どうせタダみたいなもんだからと普段は買わないものを物色しました。
目に付いたのが、"OHM+: The Early Music Gurus of Electronic Music - 1948-1980"。
グルなんて単語と電子音楽とのギャップが中々中世SF的です。時代がアナログなところも良い。作曲家名がパッケージからは全然分からず、ビルボードやローリング・ストーン誌の絶賛記事が載ってるとこも怪しくて素敵です。
ハズレかなぁ、でも1948年からだから、シュトックハウゼンシェフェールとかは入ってるだろうし、60年代も期待できそうだなぁ...と迷いつつこれに決定。レジ傍の月刊プレイボーイ(J)「ジャズ最強読本」と共に手に入れました。
「ポイント2倍期間なんですけど..」と親切な女性のレジ係さん、ありがとね、でも使います。
CD3枚にDVD1枚と、お買い得感のあるパッケージです。中を開いて作曲家 or 作音響者リストを見ると、半分ぐらいしか知りませんね。まぁ、そんなもんか。半分は技術者か研究者なのでしょう。
日本人からは湯浅譲二ただ一人です。もっといるんだけどなぁ、と早速不満です。
ピエール・アンリとか、重要人物が何人か入ってないし。ミュージック・コンクレートは別扱いかなぁ? ケージやチュードアを入れるんならレジャリン・ヒラーも入れてほしかった気がするし、IRCAMの成果も入ってないようだし...ま、文句言い出すとキリがありません。
遊び半分に手に入れたとは言え、歴史的な電子音楽など久々です。どこか構えていたのでしょう。1曲目からいきなりへたりこみそうなポヨヨン系調性音楽が流れ、脱力感に満たされました。のっけからテルミンでロマン派かよう!(チャイコでした)と期待は一気にしぼみました。ま、ロハ(死語)なんだしいっか。
ちなみに何年か前、玩具のテルミンが出ているのを、マニアックな楽器店で見つけて衝動買いしました。やってみたけど全く音程が取れません。弦の無い3次元空間ハープを弾いてる感じです。傍でみてたらただのハ”カです。音程とれないと友達を失いかねません。実際、若い友人たちの前で嬉々として弾いたら完全に無視されました。発明者のテルミン氏の苦労たるや推して知るべしです。
気を取り直して、以下、貴重な音源について書いてみます。末尾に試聴できるページを載せたので、興味ある方は聴いてみて下さい。

<1枚目>


2曲目はメシアン御大による1937年のオンドマルトゥノ曲です。公平を期したのでしょうか? "1948-"とのアルバム・タイトルは嘘ですね。てっきりケルンの電子音楽スタジオから始まるものと思ってましたから。冒頭で先駆的な電子楽器を紹介しただけかもしれませんが、戦前篇としてまとめてほしかった。
3曲目のピエール・シェフェールからはやっと普通に聴けました。こっちがケルンより先でしたね。全然忘れてました。
ま、機械の時代の音源を想像しながら具体音を聴くのは、懐かしくも新鮮な体験です。作品はレトロな美学に彩られています。
4曲目。突然、ジョン・ケージです。52年と早すぎる登場ですね。偶然か出鱈目か、終了後のブラボーの大拍手と、続くブーイングは取って付けたような気がしたんですけど、まさかそこまでが曲ではないでしょうが。
5曲目からは、SF映画の効果音に数多使われたような、聴き慣れた音色のサンプルが続きます。後にアニメの鉄腕アトムで使われたピコピコ歩きの音の原型が、50年代初頭に作られていたとは驚きです。
8曲目。『禁断の惑星』のサントラだそうです。56年でこの音ですか。驚異的ですね。映画のスチルを今見るとチャチですけど、当時は胸が高鳴ったことでしょう。キューブリックまではまだ遠いのです。
9曲目のオスカー・セラはコミカルな洒落た音楽です。チト一服。
10曲目、エドガー・ヴァレーズです。どういう原理の音楽的構造体なのか分かりませんが、多様な音の面白さを逐次重ね合わせている音響体です。アイデアの断片を音として次々と繰り出していきますが、全体的に間の多さを感じます。垂直な積み重ねも少ない。
この時代、他の曲も音が離散的ですし、あまり相互に絡みません。同時発信による多重音が種々の制約から困難だったのかもしれません。
その点ケージは52年なのに埋め尽くしてますね。音数が少ないにせよ特異的です。
13曲目はいよいよ電子音楽の巨人、カールハインツ・シュトックハウゼンの登場です。名前まで2人分はありますね。曲は59年の『コンタクテ』。接触です。当時の耳からすれば、未知との遭遇だったかもしれません。
超有名曲を入れてきたのはプロデューサの気合いでしょうか。私は、チョコチョコッと入るピアノの方が、設計・管理された電子音より好きですが。この入れ方にシュトックハウゼンのセンスを感じます。管理された偶然なのかもしれないけれど。
15曲目、ミルトン・バビットの作品はまとまった普通の音楽として作られていて、現代音楽慣れしていれば聴きやすい曲です。でも64年にもなってこの程度では先がありません。
16曲目、MEV(Musica Elettronica Viva)は学生の頃 NHK-FM の『現代の音楽』で聞いたような気がします。当時の用語で言えば、ライブエレクトロニクスでしょうか。ケージの影響を受けてるようですが、良く知りません。この曲は67年だそうですが、60年代後半のムーヴメントに合致しているように聴こえます。しかし、さほど古びてはいません。

<2枚目>


2枚目は59-70年で、この3枚組CDの中核といえます。
4曲目に、湯浅譲二のプロジェクション・シリーズから、64年のエセンプラスティックが選ばれています。今聴いても古びていません。当然フィルタはかけてますが、ホワイトノイズだけでこの緊迫感。後の『イコン』に通ずる佳品です。
冒頭と末尾の鈴虫の鳴くような音色、間の取り方、自然に任せるかのような時間の伸縮法に日本的感性を感じますが、音楽としてはインターナショナルです。
6曲目、デイヴィッド・チュードアは演奏は聴けども作品を知らず、でした。彼ほどの演奏家が曲を作らないとは考えられませんが。
タイトルが "Rainforest" なんですが、そのイメージ通りの音響です。情景描写したのか、作った音がタイトルを連想させたのか分かりません。
12曲目。ヤニス・クセナキスは『ヒビキ・ハナ・マ』です。70年万博の鉄鋼館のための音楽。膨大なトラックとスピーカを処理してます。当時の技術では大変な力技だったでしょう。力技の好きな作曲家でもあります。
クセナキスは楽器を使った曲の方が良いと思いますが、彼の電子音楽にはあまり強度を感じないので、その分親しみやすさはあります。でもこれを均一大音量で聴かされた日にゃぁ...
ミニマリスト』に分類される、スティーヴ・ライヒとテリー・ライリーとラモンテ・ヤングが入ってるのですが省略します。ここにあるのよりもっと良い曲がありますしね。ライリーのはポップな "A Rainbow in Curved Air" の背景音みたいな曲です。

<3枚目>


72-80年です。クラウス・シュルツが入り、ブライアン・イーノで〆られています。どうやら、90年代以降のポップスの流れをにらみ、そこから遡って編纂しているようです。
ベルナール・パルメジアーニは単調な連打で始まり、時々様々なノイズが割り込み、しだいに音響が多層化していく77年の曲です。
ロバート・アシュリーの78年の曲は、声を変調したのか作ったのか、背景の具体音と共に不思議な空間を作っています。ジャズのベースのようなノートがずっと鳴っています。タイトルが "Automatic Writing" なんですけど、男女の(変調したのか?)囁き声といい、映画/演劇的なパフォーマンスを想像します。
こうして3枚、42曲をほぼ時系列で通して聴くと、年々歳々、1音1音が練られ、コントロールが行き届き、『音楽らしく』なってきたことが分かります。もちろん、音響的な複雑さも進化していきます。
電子音が驚異の音空間を切り拓いていった、古き良き時代の終わりです。

<DVD>

オマケなんですけど、知らない名前が沢山あり、結構楽しめました。
ジョン・ケージの映像と音は、未だに緊張感があって良いですね。本人は映像的に変調されてても貫禄がにじみ出ています。
ナム・ジュン・パイクのビデオ作品に出てくるヒッピーおじさんみたいなケージも、肩の力が抜けてて実に良いんですけどね。作品よりも人間かもしれませんね。アメリカ人の誇りですよ、ケージは。アメリカ人にそう思ってもらいたいものです。
ジャン-クロード・リセの音は、科学教育映像に付けた効果音のようで、時代を感じさせつつも、エスプリの効いたセンスが光ります。この音色と音使いは子供の頃から耳に馴染んでる気がします。
モートン・スボトニックは映像も音も60年代的な面白さがあるのですが、作品性の無さが無方針過ぎます。個人映画をある程度観てきた人間には、映像にセンスの無い愚作と映るでしょう。
クセナキスの『ボホール』は、本当に久し振りに聴きましたが、時代と隔絶した音響作品です。こうやって聴くと『響き・花・間』と構造はともかく響きが似ています。
どこまでが具体音か分かりません。エコーのかかった多数のガラスや金属の散乱する音響の背後に、金管のようなバス音が鳴り響きます。古代の音楽を未来に多層的に発展させた音響のようにも聴こえます。iTunes のビジュアライザに使えそうな映像は、音響と完全同期はしていないものの、なにかの規則に従って連動しています。
このDVDには、何人かへのインタビュー、モノローグ、解説付きの実演、MTVの走りのような映像と音楽などがぎっしりと詰まっています。
多数のスライダー付キーボードを神経質そうに演奏するローリー・シュピーゲル女史。ディレイなどに因る同音反復を重ねた音楽です。
ジョン・チョーニング(?)による、黄金分割とフィボナッチ数列を使った曲の詳細解説は70年代でしょうか? 3次元動的グラフでのプレゼンまでしています。
ポール・ランスキーのアニメ(ゴミとホコリの化身のような主人公は実写なのでしょうか?)、ロバート・アシュリーのジョージ・ワシントンのパロディ、マックス・マチュースの人体パフォーマンス、マザー・マラードのテリー・ライリー風ポップス等々がごちゃ混ぜになっています。
〆はわざとらしくもロバート・モーグでした。比較的新しいモーグ・シンセサイザのようで、音色が多様で音もきれいな感じがしましたが。
それにしても、時代が新しくなるにつれ、繰り返しの催眠効果を狙った音楽が多いことに驚かされます。電子音が使いやすいのでしょうか? もしかするとアメリカ人の曲に多いのか? 楽音、音色、響きの拡張と引き換えに単調さを選んだのでしょうか?
戦後のトータルセリエリズムに代表される繰り返しの無い緊迫感と、反復・繰り返しだらけの瞑想的な音楽との距離には、伝統楽器の奏でる音色と、無機的で時にユーモラスな電子音との差異以上に、大きな溝を感じます。
それにしてもこのDVD、2時間半もあります。お徳用とは言え、当分観ることはないでしょう。

こうして古き良き時代の電子音楽

電子音響、ライブエレクトロニクスなどを聴いていると、70年代までの当時夢見ていた未来の音響、未来の音楽は別の世界に行ってしまったのだろうかと訝しみます。
音色だけではなく、一音一音のコントロールが困難だった時代、電子音楽スタジオがとてつもなく高価で巨大だった時代によくこれだけの音を、そしてここには入ってない数多の音響世界を創り出してくれたものです。モーグの時代になってもまだ高価でしたからね。
コンピュータも黎明期でした。2万本の真空管からできているENIACから始まり、巨大なメインフレームの全盛時代、DECのミニコンの台頭、そして最初のパーソナルコンピュータ AppleII が生まれた時代までと、電子音楽の進化とは並行しています。
80年代以降の大衆化に向うコンピュータと電子音楽の命運とは、正確にオーヴァーラップします。当時まで、交錯するポイントは多くはなかったにも関わらず。

それにしても、懐かしくも歴史の彼方に去った

変革の時代のなんと短かったことでしょうか。
しかし、1980年代に既に電子音は、さほど大衆の意識の端に上ることなく拡散し、世界に偏在していきました。ICタグより先にユビキタスを達成したのです。

電子音が空気のように当たり前になった時、

あの、未来を切り開くと思われた先鋭な音世界は過去のものになったのでしょうか。手元にあるCDとDVDとにパックされているように。眼が消滅した後に残された眼差しのように。それならば、寺山修司が言ったように、未来は過去と同義語です。
事実は多分そうではないのです。音色世界、音響世界を極限まで拡張した電子音とその音楽は、19世紀的な楽音や音楽と同じように、音楽史の中に安定した地位を占めたに過ぎません。それは音風景の中に溶け込み、他と区分されません。
先鋭な精神はいつの時代にもありましたし、これからも生まれ続けるでしょう。それがサクリファイスであるにしても。
その極端で典型的な例をコンパクトに示してくれた点で、このCD+DVDは価値のあるものでした。
そのような意味で、人類を信頼できるというのは幸せなことです。おそらくその時、未来は過去形の追憶ではなく、未来形の希望になるのだと思います。

付記:
それはともかく、このパッケージはアメリカ人とアメリカ的な音楽に偏り過ぎですね。亡命した人物もいるけれど。アメリカのレコード会社の企画であるにしても、"The Early Music Gurus"と名付けるなら、もう少し何とかならなかったのかと思いました。

【メモ】
『未来への追憶』はオスカー・ドミンゲス(Oscar Dominguez)の絵の邦題から取りました。ローティーンの頃見た現代美術の本に載っていたのですが、借り物だったので原題を確認できませんでした。サイトを探したけど見つからず。
OHM+: The Early Music Gurus of Electronic Music - 1948-1980:アマゾンで試聴できます。ぜひ聞いてみて下さい。
OHM- The Early Gurus of Electronic Music:チラッと読んだ限りでは面白そうな解説が載ってます。
ENIACが最初のコンピュータかどうかには異説があることをご存知の方も多いでしょう。↓ここのカスタマーレビューの議論が面白く読めます。
http://www.amazon.co.jp/ENIAC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E5%B4%A9%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BBR-%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%95/dp/4769350880

 現代音楽 電子音楽 電子音響音楽 ミュージック・コンクレート 2007年05月01日 Muse

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カントリーなジムとダンディなロン

*1

ジム・ホール(g)とロン・カーター(b)が、


デュオで国内のブルーノートを廻っています。この週末は大阪。昨夜聴いてきました。
中高年のジャズファンでいっぱいと思いきや、若い世代も眼につきます。隣のテーブルには20歳前後のカップル。女の子は退屈そうにしてます。会場全体を見回すと、コアなファンや現役プレイヤーから若々しいホールスタッフまで、適度に活気があって良い雰囲気です。
初日の1stだったせいか、席には余裕がありました。金曜とはいえまだ平日。18:30の開演は早いのでしょう。
背の低いジム・ホールは田舎のお爺さんといった風采。長身のロン・カーターはダンディで都会的な風貌です。実際の育ちは逆だと思いますが。
Blue Note NY でのこのデュオを書いたブログに、ロンのピッチずれが目立つとあって気にしていたのですが、1曲目を聴きながらジム・ホールの方を心配しました。でも2曲目の "Alone Together" は絶品。一気に会場を彼らの世界に引き込みます。
ステージ半ばの "My Funny Valentine" などでは、対話しているかのような掛け合いがとっても楽しめました。ロン・カーターは彼の音色と響きを当たり前のように出していたし。
後のステージがあるのに珍しくアンコール。手拍子を跳ばした甲斐がありました。掌が痛くなったけど。

実は当日の午後になってから、

近くに転勤してきた友人を誘ったのですが、「今、会議中」の上、深夜まで会議だとのこと。そんなに会議してどうするんだと思いましたが、仕事中に電話する方もする方か。
結局、他に誘うのはやめて独りで行きました。たまにはジャズの分かるヤツと聴きたかったんだけど。
ティーンエイジャーだった時、彼から1枚のコンパクトLPを買ったのが、私がジャズに眼を向けるきっかけになったのです。マイルス・デイビスセクステットでした。
そのレコードのベーシストはポール・チェンバースロン・カーターはその後を受け継ぎます。時代は既にエレクトリックに入り、マイルスバンドのベーシストはマイケル・ヘンダ−ソンに変わっていました。ホントにジャズ史の屋台骨ですね。
あれからジャズもいろいろ聴きましたが、いつもこの7インチの1枚に回帰します。
お小遣いに乏しい時代で、ティーンの間ではレコードの売り買い、貸し借りは常道でした。もちろん、友人宅に聴きに行くこともありました。中古店もレンタル店も無かった頃の話です。
グラスを傾けつつ、目の前のステージに老いたジム・ホールと矍鑠たるロン・カーターを見ていると、昔を憶い出すより今を楽しみたい気分になってきます。
今、眼の前で鳴っている生の音楽は良いものです。未来と過去とが交差し断絶する特異点、瞬間瞬間に消え去っていく『現在』を、生身の人間が生成しているのですから。
う〜〜ん。クラシックの話は遠いなぁ・・・

【メモ】
ジム・ホール&ロン・カーター-アローン・トゥギャザー、アゲイン
ブルーノート大阪:4.19(金)〜20(土)
ブルーノート東京:4.22(月)〜26(木)
ブルーノート名古屋はもう終わってます。

 ジャズ ジャズメン ジャズ・ギター ベース 2007年04月21日 Muse

*1:☆ミラーです。インポートできないようなので手動でやりました。Muse というクラシック系SNSのブログの同じ日に同じ文を載せてます。ハンドルは『とっち〜』です。(2007.06.30コピー)
^・x・^っ カントリーなジムとダンディなロン
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今日は写真のみ

*1

東京港で船からビル群を撮った、


お気に入りの一枚です。ケータイのトップにも貼ってます。
有明から日の出あたりの一帯は、お手軽なこともあって好きな地域です。茫洋とした時間の過ぎ去るような景観が遠く並んでいます。
撮影したのは1年半程前。偶然、西日が対岸のビル群に反射して、美しい光景を次々と眼前に展開し始めたのです。
わずか数分の出来事でした。
コンパクトデジカメで数10枚撮ったうちの1枚です。銀塩の一眼レフは持っていませんでしたが、残念には思いませんでした。
幸運な瞬間というのは確かにあるものです。
PS
Muse 内で、ドイツ在住の作曲家の方と、現代音楽談義を延々と続けていました。コメント合戦ですね。
そんなわけで(なにがだ!?)、クラシックの話題は延期します。

 写真 カメラ 東京湾 2007年04月17日 Muse

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疲れた日はホテルに泊まってジャズでも聴こうか

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堂島のミスターケリーズで

ギタートリオを聴いたのは、先週のことでした。四ツ橋筋を挟んでアバンザの向い。狭い街路を少し西に入ったホテルの1階にあるライブハウスです。演奏るのは主にジャズ。移転した大阪ブルーノートよりジャズの比率が高い店です。
その夜は、睡眠不足が効いてきたので仕事を切り上げ、ぶらぶら歩いて当日予約のホテルにチェックイン。シャワーを浴びてからケリーズに降りていきました。軽い食事をとりながら、独りで生演奏を聴くのも悪くないものです。

この日のトリオは、

オーソドックスなサウンドの合間に、お年を召した(失礼)ギタリストの朴訥な関西弁がボソボソ入って、気軽に楽しめました。いや、MCよりインプロヴィゼーションの方が良かったんですよ、ホント。
ステージタイトルは『4月(春)を唄う』。4月や春にちなんだ題名の曲が、取って付けたように続きます。尤も、題は春でも秋の曲とか、季節外れのバレンタインみたいなのも入ってました。それをボソボソと関西弁で説明するんですね。味があるし、押し付けがましくない笑いもとってました。

髪を剃り上げた強面のドラマーは、ギタリストの半分ぐらいの年齢。エネルギッシュですが、押さえた演奏が大人です。効果的なスティックの交換に、キラッと光るセンスを感じました。
ベーシストも良い即興をしたんですけど、壁際の私の席からはあっち向きで、音量が不足してました。こもってしまい音の分離も悪かった。全体的にもっと音量が欲しかったけど、聴きやすくて良い演奏でした。
客は14人ほど。ほとんどが男性ですが、夫婦や若いカップルも混じっています。半分ぐらいはギタリスト氏の知り合いのようでした。

気分が良くなったので、

ステージ後は、近くにある馴染みのショットバーに向いました。ジャズの話などはせずにスコッチを楽しんだだけです。
ほろ酔いでホテルに帰り、いつもより早く寝ました。疲れが幾分取れて、ちょっとだけ幸せな気分に浸れました。

PS
前回、音の話は入れたのだけど、音楽の話は全然入ってませんでした。今回音楽の話題を入れたけど、ジャズの話だもんなぁ。(汗;)
次回はクラシックの話を入れるよう努力しますね。

【メモ】
ミスターケリーズ Mister Kelly’s Official Site
KAZUHIKO TAKEDA TRIO:竹田一彦(G)、井上幸祐(B)、東敏之(D)
竹田一彦HP
・関西の大御所ギタリスト様でした。失礼しました。(=´∇`=)にゃん
 ジャズ ジャズメン ジャズ・ギター ベース ドラムス 2007年04月21日 Muse

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ダリ展とブルーオアシス II

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しばらく前の話ですが、天保山サントリーミュージアム


行ってきました。
サルバドール・ダリ展が目当てだったのですが、油彩は1/3ほどで取り立ててインパクトも無し。超有名大作の大量出展を期待してたので、チトがっかり。でも、ダリの全体像を掴むのに良いかもしれません。
実際、アート系やデザイン系っぽい学生男女が随分眼についたのです。カップルも多かったけど。
ま、こちらとしては、写真的なリアリティを出すのに効果的な、細くて少量の白の使い方を、現物確認できたのは収穫でした。
でも、気分転換に入った、同じ建物にあるアイマックスシアター』の3D映像の方が、リアルなインパクトがあって大正解でした。立体視用のメガネも意外と見やすい。
様々な海洋生物たちの、手を伸ばせば触れそうな立体感もさりながら、解像度が高く感じられるんですよ。ライティングも適切なので、上質の映像的リアリティを楽しめました。
子供騙しかと思って入ったらとんでもない。企画から仕上まで、手のかけようはハンパではありませんね、これ。技術もセンスも相当高い。
作品名は

ブルーオアシス II


色々受賞してるようです(賞など興味ないけどね)。
一緒に行った大学生がスキューバをやっていて、巨大な幽霊クラゲを指して、浮上しようとしたらあんなのが上に来ちゃって、どこかに行ってしまうまでじっと待ってたのよ、なんて言う。うっ、気持ち悪い、息苦しい...
グレートバリアリーフでの出来事だったそうです。
この映像、特筆したいのは効果音の適切さ。時々、心臓に悪いぐらいタイミングがキマってます。そう、弱肉強食、捕食シーンが多いんですよ。気弱な人はご注意あれ。
ちなみにナレーションが Johnny Depp と英国女優なんですけど、英語で聴きたい人はヘッドフォンを借りる必要があります。入ってから気付いたんですが、一緒に行った女の子は英語が得意なので残念がってました。
私は日本語で十分。字幕があれば別ですけどね。(自爆)●〜*

【メモ】
サントリーミュージアム天保山
生誕100年記念ダリ展:天保山は5.6(日)まで。
http://event.chunichi.co.jp/dali/
5.12(土)からは名古屋市美術館です。
7.21(土)からは北海道立近代美術館
アイマックスシアター
 3D:6月30日(土)までです。
ブルーオアシスII
 モダンアート 立体映像 スキューバ・ダイビング 2007年04月21日 Muse

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^・x・^っ ダリ展とブルーオアシス II
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